★ 赤い羊 ―REDRUM IN THE MIRROR― ★
<オープニング>

 暗黒色の沈んだ部屋の中。
 窓の向こうでは、全面ガラス張りのビルが煌びやかに閃いているが、その明かりが闇を払うことはなく。
 ワンルームの小さな部屋には、不釣合いなほど大きな姿身が立てかけられている。
 そこに映るのは、どうしようもなく全身真っ赤な羊だ。
 ポタリポタリと、頬から、指先から、躰から、羊を染める赤の色は鈍く滴り落ちていく。
 その足元では、やはり、どうしようもなく赤い水溜まりが広がっていく。
 冷たい沈黙を埋めるのは、ねっとりとした水音と、それから錆付いたニオイだけ。
 どれだけそうしていたのか。
 長く無言のまま足元を見下ろしていた羊は、ふいに水溜りを蹴って跳躍し、暗い鏡の向こう側へと消えてしまった。
 そして。
 そうして、後に残るのは、果てしなく暗い水溜りに横たわる物言わぬ『何か』だけ――



「あのね、ひつじを見つけてほしいの……」
 市役所の対策課、その応接間でリオネは植村直紀にしがみ付くようにしながら呟いた。
「鏡の中のまっかなひつじがね、鏡から出てきちゃったら……だめなの」
 かすかに震える声、潤む瞳には、あきらかな恐怖の色がにじんでいる。
「幸いというべきか、この件についての情報は今のところ報告されておりません。ですが、悲劇は未然に防ぐべきですから」
 植村はリオネを労わるように視線を投げ掛け、それからまっすぐに顔を上げた。
「羊を見つけ、掴まえてください。ソレが更なる赤を生み出す前に」
 幼い少女がみた夢は、鮮烈にして陰鬱な惨劇の断片。
 それだけでも、ある種の状況を予感させるには十分ではある。 
 リオネはおずおずと、更に小さく歌うように呟いた。
 じわりと滲み出てくる不吉なフレーズが、耳について離れない。

 羊を見つけて、掴まえて
 ケモノがヒトになる前に

種別名シナリオ 管理番号46
クリエイター高槻ひかる(wsnu6359)
クリエイターコメントダークでホラーでマザーグースな雰囲気でお送りすることになるかと思います。
もしかすると、ほんのりアクション的な要素が加味されるかもしれません。

参加者
シュヴァルツ・ワールシュタット(ccmp9164) ムービースター その他 18歳 学生(もどき)
白神 弦間(cbbe7834) エキストラ 男 68歳 縫製職人・手芸作家
取島 カラス(cvyd7512) ムービーファン 男 36歳 イラストレーター
<ノベル>

 銀幕市を見渡せる巨大ビルの屋上で、彼の黒髪が風になぶられる。
 抜けるような青空を、ロードショーを間近に控えた映画宣伝用の飛行船がゆったりと横切っていく。
「いっておいで」
 ふわりと空に差し伸べられるしなやかな指先から、放たれるのは細い細い銀の糸、そこに繋がれる蟲は忠実なる彼の眷属だ。
「見つけるべきは血に染まったケモノ……悪夢の結晶だよ」
 この世ならざる形を取った不可視の存在がいずこかへと散っていくのを目で追い、それから愉しげに笑みを浮かべる。
「オレの獲物、オレの羊、美味しく食べてあげるからね」
 くすくすくすくす、酷薄な、けれど無邪気な色を閃かせて笑い続ける。


 街中に溢れたショーウィンドウは、そのまま巨大な姿見となる。
 そこに映る姿は紛れもない人間。だが、その表情は揺れ、穏やかな眼差しを掻き消すように鋭く病んだ灰色の視線を放つ。
「赤い羊、殺戮者の名前、か……」
 飼い主の不穏な変化を察知したのか、ミッドナイトカラーのバッキーが外出時の指定席となってリュックサックのポケットから顔を覗かせる。
「黒刃、お前の出番はまだ先だ」
 だからもう少しだけ護られていろと告げて、指先でさらりとバッキーの鼻先を撫でた。
 青年は再び硝子越しに世界を眺め、それから目的地へと視線を流し、連絡を待ちながら雑踏に紛れながら思考に沈む。
 彼の羽織るロングコートの中では、小さく微かに金属のぶつかり合う音が響いていた。


 目を見張るほどに広大かつ色鮮やかな布であふれた作業場に彼は身を置いていた。
 70年近い時間を刻んだ手が器用に針と糸を操り、ときには巨大な鋏で自在に布を裁っていく。
 さらには透明なフィルムの上に乗せられた黒い布が瞬く内に縫い付けられて、見る間にソレは即席の牢獄となった。
「これで捕まえられるといいんだけどねん」
 軽い口調で呟いてはみたけれど、懸念はなかなか消えてくれない。
 スケジュール帳を楽しい予定でめいっぱい埋め尽くしている彼の奥方が、出かけしなにちょっとだけ呟いていった言葉が引っかかっている。
 だが、思いつく限りの準備は既に終えてしまった。後はその場に立ってみなければ分からないだろうと思いきる。
「基本に忠実に。準備は万端に整えた、と」
 よいしょ、との掛け声とともに、コレもまたお手製の大きな袋を引っ張り出して、彼はたった今作り上げたものを丁寧に畳んでしまいこんだ。



 美しく滴る鮮赤に導かれて、そっと静かに、夜が帳を降ろすよりもさらにさりげなく、闇の世界へ降り立ってみる。



「到着!」
 長い黒髪をふわりと踊らせ、少年が二人を振り返る。
「オレの情報網が正しければ、ここが件の事件現場、になるかもしれないし、既になっちゃったかもしれない場所だよ」
 ふわっと無邪気な笑みを浮かべて、シュヴァルツ・ワールシュタット――今のところ篠山愁と名乗っている少年は、今度は黄昏時の光を反射する小さなビルを眩しげに見上げた。
 キラキラキラキラ、琥珀色に輝く硝子に、街並みと空が映っている。
「それでもって、ここがオレ達の狩猟場にもなるってワケ。羊を追っかけるなんて、なんだかすごくお腹がすいちゃうよね」
「確かに、羊肉買って帰りたくなるから不思議だ」
 白神弦間は、一抱えもある麻袋をサンタクロースのごとく担ぎ直して、シュヴァルツと同じようにビルを見上げた。
 還暦を越えていながら、職人というよりは業界人としての洒落さ漂う出で立ちが、大荷物をあつらえた小道具のようにマッチさせている。
「思いきってジンギスカンってぇのも悪くないな」
「オレ、今日の食材探してる気分かも」
 顔を見合わせて、中身のまるで違う笑みを交わしあう。
 だが、そのとなりで取島カラスだけは、ノンフレームのメガネ越しに二人と同じ景色を見ていながらもわずかに眉をひそめていた。
「そんなにはしゃいでいていいのか?」
 険のある視線がビルの窓を睨みあげる。
 カラスにとって、ここはあまりに不吉だった。
 自称とはいえ、イラストレイターという、ある種の芸術分野にその身を置いているせいか、この出来過ぎた情景に不安を掻き立てられる。
「その羊は、人間の皮を剥いで被っている……そんな推理を披露してるヤツだっているんだ」
「ほほう? そいつはまた、とびきり黒いジョークだな」
 飄々とした表情ながらも、弦間は肩をすくめてみせた。
 銀幕の内側であれば眺められる光景も、現実のものとして捉えるのなら話は別だ。特殊メイクではないグラン・ギニョールを目の当たりにはしたくない。
「ジョークで済むならリオネもあんな予知はしねえはずだぜ、弦間」
 普段の、どちらかといえば礼節を弁えるカラスらしくない、突き放した物言いには昏い影がちらついていた。
 彼の内側は『羊』に共鳴するかのごとく揺れ続けている。
 胸に刻まれた傷が疼く。
 ざわざわと、封じていたいはずの記憶が騒ぎ立てている。
 頭痛に苛まれたモノのように固くまぶたを閉じて、カラスはリュックのショルダー部分を強く握り締めた。
 不快でたまらない諸悪の根源を一刻も早く抹殺してしまいたかった。
 だがそんな彼の不穏さを断ち切るように、無邪気な声が隣で弾む。
「でも、赤い羊なんだもん。それくらいはして当然かもね」
 可愛らしさを演出する大きな瞳が、くるりとカラスと弦間と建物を見回す。
「お、坊主も気付いてたか?」
「うん、だってすんごくありきたりで解りやすいもん」
「アナグラム……ですらないかもな」
「そうそ。【REDRUM】と【MURDER】、鏡を挟んだ途端に意味が変わってしまう言葉遊びのひとつ、ってね。ちょっとだけ変則的で、でも結構有名なお話がいっぱいあるよ」
 あ、でもどうせなら余計なものなんか被らずに、そのまんま羊でいてくれる方がずっと食欲そそるよね。
 口の中で小さな呟きをこぼした唇を人差し指ですっとなぞる、その仕草に、一瞬捕食者の獰猛さが覗く。
 だが、同行者たる弦間にソレは届かず。
「それじゃ、いっちょ羊捕獲に乗り出すか」
 ばしっと景気よく弦間に背中を叩かれ、カラスとシュヴァルツの息が一瞬詰まった。



 羊は探す。己の存在意義を求めて、己が変わる瞬間を求めて、探して探して探し続けて鏡を渡る。



 撮影のために建てられた廃ビルは、入居者皆無という状況と相まって、コンクリートの無機質さと薄ら寒い空気で侵入者たる彼らを出迎えた。
 とっくに電気の供給は止められたらしいその内部に、3人分の足音が響く。
「うんとさ、オレとしては特に興味はないんだけど、今回実体化したのってどういう映画だったのかなぁって」
 暗闇の中、かすかに漂う臭気を頼りに歩を進めながら、シュヴァルツは軽く疑問を口にする。
 リオネの予知の中にヒントはあったかもしれないが、あいにくごく短期間しかないこの世界での記憶に引っ掛かるものはなかった。
 だが。
「スプラッタ、だ」
 低く簡素に、少年の問いにカラスは応える。
「……廃屋の探索に出た若い男女、よくあるサークルの仲間たちを『殺人鬼』が次々と襲うスプラッタ・ムービーだ」
 いわゆるB級C級ホラーを好む知り合いは楽しげに、そして多少の憐憫を込めて呟いた。
 ケモノの皮を被るのか、ケモノの本性を現すのか、どちらの見方がより正解なのかは分からないけれど、それで物語の解釈も変わってくるのだと。
 だが、カラスの講釈の続きを聞く時間はなかった。
「どうも、既に羊の方は晩餐会に取りかかったようだ」
 わずかに沈んだ弦間の低い声に被せて聞こえる、ぐしゃりと、水分を多量に含んだ『何か』が移動する音。
 そして。
 ぴちゃり。
 耳を打つ、水音。
 視覚を奪われた世界で、それ以外の感覚を強烈に刺激するサイン。
 ピチャリと、再び水音が弾ける。
 けれど。
 何より問題なのは、扉を開け放った瞬間から鼻腔を貫く、濃厚な錆色の臭気だ。
 全員の目に飛び込んできたのは、目の醒めるような鮮赤。
 鏡の中からこちら側の世界へと、のそりと這い出てくる真っ赤な羊。
 目の前にある全てを己の色で染めたくてたまらない、真っ赤な心と病んだ世界。
「こいつはまた随分と……」
「文字通り、というべきか」
 バッキーの潜むリュックをそっと下ろし、カラスは胸元へ手を差し入れる。
「へえ」
 シュヴァルツの方でごそりと小さな影が動く。
「正真正銘の羊だってんなら、それこそコイツの出番ってもんだ」
 弦間の手によってサンタクロースじみた白い袋から取り出されたのは、お手製らしいヤギの付け髭だった。
「それ、ダジャレ?」
 可愛らしい表情で小首を傾げたシュヴァルツに、弦間は器用に片眉を跳ね上げる。
「おい、笑ってくれるなよ? ボクとしては、これでもいろいろな可能性と対処法を考えたわけなんだから」
 掴まえて、取り付けて、存在を書き変える。うまくいけば面白い効果を上げるはずだ。
「ソレで【RAM】が【goat】に成り変わればいいがな」
 シュヴァルツが更なるツッコミを入れるより先に、カラスの言葉が冷ややかに差し込まれる。
「やってみなくちゃわからんさ。さあ、とにかく捕獲だ!」
「了解!」
 闇を一閃する銀の糸、そして白刃。
 前者はシュヴァルツの、後者はカラスの、最初の一撃。
 突然の襲撃に、追われた羊はビシャリと水音を散らしながら闇色の部屋の片隅へ飛び、次いで壁を蹴って頭上を舞う。
 狩猟者たちの追撃をかわすため、羊は非戦闘員と見做した弦間めがけて突進するが――
「おっと!」
 ヒゲを捨て去り引っ張り出された手鏡に『着地』し、合わせ鏡の常というべきか、こちらへの入り口に使った姿見へと強制的に送り返される。
「そのまま、お前さんはそっから出てくれるなよ!」
 その一時を逃がすはずもなく、弦間の、マジシャンのごとき手並みで、一枚の布らしきものがばさりと空間に広げられた。
 巨大な姿見をすっぽりと覆った格子模様、それはまるで牢獄を思わせる。
「完了!」
 鏡の中へ戻るはずだった羊。
 牢獄によって帰る場所を失った真っ赤な羊。
 たぎる憎しみと本能が、咆哮をあげたその一瞬で、呪わしく、切なく、狂おしい感情の奔流がぐわん……と瘴気の塊のごとく目の前の獲物へぶつける。
「あれ、コレで捕まえちゃったらオレの出番もうなし?」
 まだまだ全然楽しんでないとばかりに不満顔のシュヴァルツに応えたのは、鮮血の羊ではなく、それと強い視線で結ばれたカラスだった。
「……お前たち、REDRUMの本当の意味を知っているか?」
 じっと羊と、羊とともに牢獄の中に囚われている鏡の世界の自分を凝視したまま、カラスは背後に立つ二人へ問い掛ける。
 彼の全身から、じわりと滲み出てくるのは『殺意』。
「本当の意味?」
「逆さに読んだら殺人鬼、それ以外にも意味があるってぇのかい、兄さん?」
 いぶかしげな問い掛けは、辛辣にして酷薄な声音で返される。
「赤い羊は、仲間を殺した裏切りモノの証。何食わぬ顔をして、殺戮を繰り返すモノの名だ」
 赤い羊、真っ赤な羊、仲間の血を浴びた、危険な羊。格子の向こう側でなお、強烈な光を放つ真っ赤な羊。
 そこに重なる赤いカラス。無頓着にコーディネートされた洋服が、滴る赤に染め上げられる。
「赤い羊(REDRAM)は【A】を捨てる代わりに【U】の文字を手に入れて、殺人鬼(MURDER)になる」
 振り返る、彼の口元に刷いた微笑は邪にして不吉な色。
『掴まえなくちゃ、食われるよ』
 途端。
 青年の拳が、フィルム越しに鏡を叩き砕いた。
 砕け散る、硝子の破片。フィルムの牢獄を滑り落ち、床に散らばり、無数に光を反射する。
 その光を受けながら、闇の中で爛々と輝く憎悪の瞳をギロリと弦間へ向けた。
 三日月の瞳孔が獲物を捕え、振りあげられたのは鋼鉄の爪を模したナイフだ。
「おいおい、兄さん!」
「思い切りよく乗っ取られちゃったね」
 目を細めておかしそうに口先だけで笑うシュヴァルツの、視線が殺意と征服欲を含んできらめく。
「だけど、狩猟者はこっちだよ。代わってなんかあげないから!」
 砕けたガラスの破片から、逃れ飛び出して赤い羊は跳ねる。
 存在を塗り替えられるより先に、己の居場所を求めて、跳躍に次ぐ跳躍。開け放たれた扉の向こうに消え失せる。
 だがその体には細い銀糸がたなびいていた。
 銀糸のもう片方の先端を指に絡めたシュヴァルツは、軽く昂揚した声を上げて鮮赤の部屋を飛び出した。
 その後を小さな黒い塊が追いかける。
 後に残るのは、狂気と化したカラスと、それに対面する弦間のみ。
『殺してあげる、ばらばらに。キミの信頼も、キミの愛も、キミの裏切りも、見ないふりをしてあげる代わりにね』
 愛しているといったあの言葉は全部ウソだったんだ、と笑って告げて。
「羊は眠りを運ぶ、赤い羊は死を運ぶ、そして永遠を切り刻む」
 カラスの声でカラスではない言葉を吐き出し、ナイフを掲げる。
「手芸職人に肉体労働は向いてなんだけどな」
 だがそんなボヤキを相手が聞いてくれるはずもない。
 およそヒトとは思えない敏捷さで、殺人鬼は己が刃を三度振りかざす。
 妻の言葉がふと頭を過ぎった。
 そう、確か。羊は象徴、羊は称号、鏡に映るのは自分自身の心、そして羊はその心を貪り、名を変えるのだとしたら――彼を捉えるものもまた、赤い羊だ。
「くらえっ」
「―――っ!」
 突き出した手から勢いよくスカイブルーが噴霧される。
 スプレー缶独特の、何とも言えない匂いを振り撒きながら、鮮赤の衣装を爽快な青へと塗り替えた。
「名前と鏡が存在意義なら、ソレを本質から覆してやるってぇ話だ!」
 怯んだスキをついて力任せにカラスの身体を抱きこむと、更に追い討ちで青スプレーを噴射する。
 瞬間。
 カラスを取り込んだ感情、悲鳴、まごうかたなき絶望の合間に、彼自身の意識が目を醒ます。
 リオネの予知を知ってからずっと、内側に回っていたカラスの思考がゆるやかに主導権を取り戻す。
 赤い羊。仲間殺しの羊。それなのに胸が疼くのは、映画の中で羊を呼び込んだ青年の傷が自分の抱える痛みに呼応したから。
 裏切ったのは、裏切られたのは、傷付いたのは、傷付けられたのは、絶望したのは、『羊』に我が身を捧げてしまったのは、例えようのない哀しみに押し潰されたから――

 ――でも、それでも、まだ信じたい。信じていたいんだよな……
 ――赦せなかったのは、自分だよな

 赤い羊。裏切りモノの羊。流れ込んでくるのは、哀しい記憶。好きだったのだ。愛していた。愛されていると思った。けれどそれを信じるにはあまりにも……
 静寂と鎮魂の青にまみれた青年は、見事な存在の書き換えを行った職人の腕に抱えられたまま、大きく深呼吸を繰り返す。
 息の仕方、笑い方、優しさの向け方を思い出す。
「ご迷惑をおかけしました……」
 感謝と謝罪を込めて口にする、柔らかな言葉。
「お、帰ってきたか」
「帰ってきました」
 弱々しくではあっても、カラス本来の穏やかで人好きのする笑みが弦間に向けられる。
「黒刃は?」
 ふと、いるはずバッキーが見当たらないことに気付く。リュックサックはカラッポだ。目を離せばすぐにふらふらいなくなる気まぐれ屋は一体どこに行ってしまったのか。
「どうもあの坊ちゃんと一緒になっていったみてぇだな」
「追いかけないと」
「そうだ。追いかけねえとな。それでもって感動のラストシーンに向けてひとっ走りだ」
 弦間から差し出された手に捕まって、カラスは立ち上がり、リュックを拾い、そして今度こそ自分の意思でナイフを握った。


 窓に飛び込んでくる街の光、サーチライト、眠らない都市の派手やかな宣伝用の巨大看板。
 少年は指に絡まる銀の糸を手繰り寄せ、一室に足を踏み入れた。
 家具も何も残っていない、ガランとしたワンフロアは、窓から差し込む煌びやかな光を時折反射する小さな鏡以外は闇に沈んでいる。
「ビンゴ」
 唇の端が歓喜に釣りあがる。
「もう逃げられないよ」
 視線と言葉が向けられた先――床に転がり悶えるのは、赤を滴らせ振り撒く大きな羊だ。その体を拘束するのは、細く美しく、そして強靭な蜘蛛の糸。
 もがけばもがくほどに己を締め上げる結果となるのは明白だった。
「さあ、食事の時間だよ」
 食欲という本能を隠そうともしない彼の視界の端に、自分を追いかけてきたらしい黒刃を捉える。
 だが、シュヴァルツは羊に視線を固定したまま、唇に小さく笑みを浮かべて宣言した。
「キミもとってもおいしそうだけど……せめてひとかじりしてみたいかなって思ってはいるんだけど、今日のところは我慢してあげる」
 バッキーもまた、彼への食欲より先に、目の前の羊に全神経を注いでいるらしく、ふたつの視線は交差しない。
 そして強烈な光を宿しているはずの羊の視線に、狩猟者は一切の揺らぎも見せずに言い放つ。
「オレにはないよ。お前ごときに食われるだけの痛みも傷も闇も願望も」
 そうして最上級ににこやかな笑みを弾けさせ、
「ケモノがヒトになる前に……我は汝の肉を喰らい、汝を我の糧とする」
 ぐわ。
 少年、正確にはその肩に留まる巨大な蜘蛛から吹き出した影が、圧倒的な質量をもって羊へ覆い被さった。
 一瞬にして、羊の半身を呑み込み。
 砕く。
 断末魔の、空を引き裂く悲鳴は、もうひとつの捕食者によって遮られる。
 競うように影と黒い獣が貪り食って。
 吹き出す漆黒の憎悪と煙のごとき鮮赤の飛沫を振り撒いて、この世界から一匹の殺人鬼が抹殺された。
 そして、食後のひと時を思わせる、心地良い沈黙がシュヴァルツとバッキーの間に訪れる。
 だが、そんな何とも言えない時間は、すぐに盛大な足音と扉を開け放つ音で壊された。
「黒刃!」
「大丈夫か、少年!」
 斬新な青に染まったカラスと、彼を抱きかかえたせいで青の移った弦間、2人の来訪が闇の気配を吹き飛ばす。
「遅いよ、2人とも」
 だからシュヴァルツは、可愛らしさの仮面を付けなおし、笑顔で迎えた。
「お、なんだなんだ、もう片付いちまったのか?」
 感動のフィナーレに遅れちゃったかなと、弦間は肩を竦めて苦笑する。
「おいしくいただいちゃった」
「どうもそうらしいね」
 あれほど滴っていたはずの赤はどこにもない。
 鏡の中にも、カラスの中にも、闇の中にも、惨劇の色を纏った羊はどこにもいない。
 代わりに部屋には一巻のプレミア・フィルムがポツリと落ちていて、ソレが沈黙によって全ての終わりを告げていた。
「黒刃、おつかれさま」
 ムービースターを喰らったにしては満腹ではないらしいバッキーをそっと抱き上げて、カラスは深い安堵の溜息をつく。
「さぁてと! 一件落着ついでに、打ち上げがてら羊肉パーティといってみるってのはどうだ?」
 プレミア・フィルムを拾いあげ、笑う弦間の提案に反論など出ようはずもない。
「ステキですね」
「賛成!」
「ただし、ボクとカラス君は着替えてから。このカッコじゃあんまりにもあんまりだ」
 サンタクロースの白袋は四次元に繋がってでもいるのかもしれない。手を突っ込んで引きずり出されたのは、ジャケットやシャツ、いい具合に色落ちしたGパン一揃い……いや、二揃いだった。
 あまりの用意の良さに、またしても笑いが弾ける。
 そうして。
 この廃屋に入ってきた時とは正反対の、明るい声を弾ませて3人はその場を後にした。
 黄昏に染まっていたはずの外は、いまや完全なる夜の世界に支配されている。
 けれど、ライトアップされた看板や夜空を切り裂くサーチライト、ショーウィンドウからあふれる煌びやかな光が、闇が生まれる隙を与えないほどに溢れていた。

 赤い羊は檻の中。
 ケモノはヒトになる前に、虚無の世界に捕らわれ眠る――


END

クリエイターコメント はじめまして、こんにちは。この度は当シナリオにご参加くださり誠に有難うございます。
 銀幕市における高槻の初タイトル、いかがでしたでしょうか?
 頂いた依頼文はどれもとても興味深く、あれもこれもと取り入れて構成していく内に、ダークホラーというよりは幾分アクションちっくな仕上がりとなりました。
 多少の捏造と掛け合い成分が増したシナリオとなりましたが、お待たせした分も含めて少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

>シュヴァルツ・ワールシュタットさま
 無邪気さと酷薄さの二面性の魅力と、羊へのアプローチ方法(捕獲後の処置についても含め)にドキドキさせて頂きました。
 ヒトとずれた感覚というのはやはり興味深いですね。
 ラストは可愛らしく『はんぶんこ』としてしまったので、空腹は是非ともプレミアム・フィルムの換金分で補っていただければと密かに思っている次第です。

>白神弦間さま
 『赤い羊』に関して、手抜かりない、しかもお茶目さを覗かせた捕獲手段考察を有難うございます。堅実からアイデアあふれるアプローチに思わず感嘆の溜息をついてしまいました。
 個人的に『山羊ヒゲ』案がものすごくツボです。
 『用意周到な手芸作家さま』というイメージで、ラストに小ネタを仕込んでしまいましたが、笑って許していただければと思います。

>取島カラスさま
 プレイングを拝見し、「これは是非とも」とインスピレーションを得て、『同調』という手段を経てあのような役回りをご用意させていただきました。
 イメージに合うものとなったか不安ではありますが、カラスさまのおかげで、単なるスプラッタではない『含み』を物語に付加できたように思います。

 それではまた、個性豊かな皆様と別のシナリオでお会いできるのを楽しみにしております。
公開日時2007-01-12(金) 23:40
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